迷子の野良猫

 まるで生まれ変わったようだ。
 今までと別人のようになった人間を、そう表現することがある。
 だがトウコは思う。人間なんて一度生まれ変わったくらいでは、大して変わりはしないと。
「迷った……」
 トウコ・カーティス、十六歳――それが今のわたし・・・である。
 前の自分を思い出して早二年。しかしトウコという人間はとくに変わり映えすることもなく、ただいたずらに時間を浪費していた。
「どうしようシディ、また迷ったよ。これ間に合うかなあ」
「ニャア」
 とりわけ方向感覚の貧弱さは一向に改善の気配がなく、現在進行形で悩まされている深刻な問題だ。トウコの旅行に母が難色を示していた一番の理由もこれである。
 中央司令部を目指しているはずがいつの間にか駅まで戻って来てしまい、トウコは大きくため息をついた。一番目立つ建物だから簡単にわかる、と道を尋ねるたび気安く言われるのだが、そろって自分を謀っているのではと疑いたくなるほどたどり着かない。
「シディ、道わかったりしないよね?」
 バッグの中の猫は今度は返事をくれなかった。しかたなく現実逃避をやめて歩き出す。
「お嬢さん、迷子かい?」
 トウコが振り返ると、見知らぬ初老の男が柔らかく微笑んだ。
「道に迷ったのなら、私が案内しようか」
「え……でも、」
「観光案内が趣味なんだ。気にしないでおくれ」
 中央にはそんな物好きがいるのか。
 ふと、母の言いつけを思い出したが、たかが道を教わるくらいなら危険はないだろう。
 思いがけない親切に触れ、トウコは男についていった。

 ――しかしそれもつかの間。
 男に案内されるまま狭い路地へと入り込むなり突然上着を奪われ、ナイフを突きつけられて、トウコは早くも自分の愚かさを後悔した。
「な、なにをするんですか!?」
 鈴の音の声が空気を裂く。驚いたシディがショルダーバッグから飛び出した。
「へっへっへ。なあに、案内料をもらうだけだよ、綺麗なお嬢さん。おのぼりさんかな? 田舎者だろう? ダメだよ、知らない人にホイホイついていっちゃあ。都会は危ないところだからねえ」
 露骨に悪人がましく笑い、男はにじり寄った。物取りか暴漢か、どちらにせよ中央の治安について評価を修正せねばならないようだ。
 男が取り出したナイフを構える前に足を振り上げかけ――幼馴染の言葉が浮かんで、すんでのところで抑えた。代わりに高そうな革靴めがけて力いっぱい踏み降ろす。
「い゛っ!!?」
 男は急な痛みに呻いてナイフを取り落としたものの、かたくなに左手は離さない。トウコの服は依然掴まれたままだ。やはり、こんな可愛い抵抗では駄目だ。
「っもう! 離してください! 今日中にエドとアルを見つけるんだから……!」
「いったたた……クソ。これが済んだら連れて行ってあげるさ。ほらほら、オジサンに任せてごらん」
「いや……やめてったら! 離して、離せ! 殴りますよ!」
「ははは、可愛いねえ。ちっとも怖くないよ、お人形さんみたいだ」
 もがくトウコに対し、男はまるでめげる気配がない。いっそ殴って蹴って投げ飛ばしてしまいたいが、相手は仮にも老人。加減せねば怪我をさせてしまいかねない。
 ひとまず大声をあげるべきかとトウコが大通りの方に目をやると、胸元で糸の切れる嫌な音がした。
 ぶわりと全身が粟立つ。
 脂ぎった目で笑い、千切れたブラウスを剥き取ろうとする男を認識した瞬間、かっと頭に血がのぼった。
「こ……っの、触んなゲス野郎っ!!」
「ぐっ!?」
 相手が女の敵であると断定したトウコは、男の顎に全力の掌底を打ちこんだ。急所を一撃、母直伝の必殺技だ。
 崩れ落ちた男が冷たい路地に倒れこむ。軽い脳震盪だ、問題はあるまい。いや、問題があってももう知ったことか。
「あークソ、腹が立つ」
 男に触られた服が酷く汚れている気がして、パンパンと強くはたいた。
 その瞳には先ほどまでとは別人のような、荒々しく力強い色が浮かんでいる。
 男が言った通り、トウコは美しい。
 それはトウコも自覚している。均整のとれた容貌は彫刻のごとく一分の隙もなく、ボロボロの今の姿ですら、乱れた髪のひと筋までもが一幅の絵画に等しい。
 この容姿、そしていささか騙されやすい性格も、両親がトウコを心配する理由であった。
 それが一人旅の許可をおろしてもらえたのはひとえに自衛の技術が高いからである。昔からこういった輩には狙われやすいトウコは、身を守るすべは両親から徹底的に叩き込まれてきた。
 とはいえ、
「……こういうことするから、友達なくすのかなあ」
 ”よく平気で人を殴れるよね”幼馴染の彼女の言は正論であり、それを理由に嫌われたなら悪いのはトウコだ。
 だから最近では人前での実力行使は極力ひかえ、品行方正な良い子であろうと努めている――のだが、短気を起こすとついこうして、力技を好む性質が全面に出てしまう。老人を昏倒させるなど彼女に言わせれば言語道断の所業だろう。
 こんな調子では反感のひとつも買って当たり前だ。
 しかし元はと言えば、元凶はこいつのような女の敵。
 地に伏す男を睨みつけ、トウコは涙目で鳥肌の立った腕をさすった。
 もう一発殴ってやろうかと八つ当たりまがいのことを考えていると、路地の奥から軽い拍手の音と、喉を鳴らす笑い声が響いた。
「やるねえ、お嬢さん」
 ――人に、見られた。
 慌てて顔をあげたトウコの目に映ったのは、暗がりから現れた黒髪の少年だった。
 トウコは一瞬、新手の変質者かと身構えた。
 なにしろ少年の出で立ちはあまりに前衛的で、筋肉質な腹部や太ももを惜しげもなくむき出しにした黒ずくめの衣装は、歓楽街の商売女と比べてもずっと露出度が高い。そのうえ裸足。しかしスラムの子供という雰囲気でもない。
 いったい何者だろう。トウコは硬直したまま少年の動きを見守った。
「はい、コレ」
 弾け飛んだボタンのひとつを拾いあげた少年が、それをトウコに手渡す。
 間近に少年の顔を見たトウコは、その特徴的な容姿と赤い瞳に、埋もれていた遠い記憶を思い出した。
「……あ」
 彼は、『知ってる』人だ。
「ありがとう……」
「こちらこそ。面白い見世物だったよ。見かけによらず荒っぽいんだねぇ」
「……引いた?」
「引く? なんでさ」
 少年はきょとんと笑みを浮かべた。
 その柔らかさに安心しかけたが、トウコの記憶が正しければ、彼の本性はその笑顔とは似つかないもので、そもそも少年ですらないはずだ。
 とはいえ前世の記憶は朧げで、確証も自信もない。
「この上着もあんたの?」
「あ、うん。ありがとう」
 路地に放り出されていた上着を拾ってくれた少年は、軽く汚れをはたいてからそれをトウコに手渡した。その仕草は優しい、もしくは親切としか表現できず、トウコは再び首をかしげた。
 自分の勘違いだったのだろうか。そう思い直しかけたが――少年は倒れている男の上に躊躇なく、どっしりと腰掛けた。ぐうっと苦しげな呻きがもれる。骨の折れる音も、聞こえたかもしれない。
「……骨折したんじゃない?」
「あ? かもね。でも別にいーじゃん、こんな虫けらごときさ」
 平然と言ってのける少年に言葉を失う。
 そういえば“見世物”と言っていた。トウコが襲われているところを黙って見ていたのだろう。
 やはり勘違いではない。今度は心の中で強く頷き、トウコは手早く上着に袖を通した。
 トランクの陰に隠れていたシディを抱き上げ、「ではこれで」と路地を去ろうとしたトウコに、少年が声をかける。
「その格好で表に出るの?」
「え……あ」
 いまさらトウコは自分の服を見下ろした。
 留め具のない上着とボタンの取れたブラウスは前が全開で、下着まで見えている有様だ。
 たしかにこれで外を歩くのはあんまりだろう。
 トウコはバッグからスケッチブックと万年筆を取りだし、素早く錬成陣を描いた。
「ふーん、錬金術師なんだ」
「まあ、一応……」
 拾い集めたボタンと脱いだブラウスをその上に置き、錬金術を発動する。
 下着姿をさらしていいものか一瞬だけ躊躇したが、おそらく彼は人間ではない。よって異性にカウントする必要はないだろうとトウコは自分に言い聞かせた。服を着たまま針と糸で縫うことも出来るが、こちらの方が早いのだ。
 青い光と共に服が修復されていく。よれてはいるが質量が減ったわけではないので、元通りに戻せそうだ。
「手際良いね」
 一連の流れをまじまじと眺めて、少年は感心したように微笑んだ。
 手際が良いのは慣れた作業だからだ。錬成のスピード自体はむしろ遅い方だろう。錬金術は組み手ほど得意ではない。
「ええと、色々ありがとう。急いでるから、わたしはもう行くね」
 直った服に改めて袖を通したトウコは少年に会釈をして、今度こそ歩きだした。
 小さく安堵の息をつく。ようやく日の差す明るい、賑やかな大通りに出られた。陽だまりが暖かい。
「鋼のおチビさんなら国立中央図書館にいるよ。そこの大通りを右に真っ直ぐ行った、左手の角」
 後ろから聞こえた声にトウコは振り返った。同時に、心臓がきゅっと縮まる感触を覚える。
 一秒前まで自分もいたはずの路地は、ここから見るとまるで別世界だ。
 背の高い建物に遮られ一切の光が当たらないそこは、閉め切った室内のように仄暗く、水の中のように冷たい。地続きの路地のはずなのに踏み込むことすら憚られるほど。
 冷たく感じるのは少年のまとう空気だろうか。それとも日射量の違いによる、単なる体感的なものだろうか。
 少年はあまりにも自然に暗闇へ溶け込んでいて、トウコには区別がつかなかった。
「え……っと、鋼のおチビさん……」
 その場に立ち尽くしたまま、トウコは少年の言葉を口のなかで反芻した。
 光と影が演出する二つの世界のコントラストに、どこかうすら寒いものを感じ、うまく頭が働かない。
「エドワード・エルリック。探してるんでしょ?」
「あ……うん」
 少年は膝に頬杖をつき、にこやかに目を細めて言った。
 毒気のないきれいな笑顔。トウコはほっと息をついた。
 少し緊張し過ぎているのかもしれないと反省して、少年に笑みを返す。
「ありがとう。大通りを右だね」
「そうだけど、そっちは左だよ」
「……あ」
 踏み出したばかりの足を引っこめる。
 少年は馬鹿にするように白い目でトウコを見上げた。見上げられているのに見下されているとはっきり分かる、そんな目つきだ。
 それに照れ隠しの苦笑とお礼を返し、トウコはそそくさとその場を去った。間抜けな失態に顔が赤くなるのを感じたが、緊張は解けたかもしれない。
 機会があればまた会ってみたいと、トウコは少年の姿をした彼の名を小さく呟いた。

「エンヴィー……。嫉妬の、人造人間ホムンクルス

§

 暖かい初夏の日。昼下がりの路地裏での、偶然の出会いだった。
 これからこの二人を待つ数奇な運命をまだ誰も知らない。
 誰も知らない、小さな出会い。

「……トウコ・カーティス、ね。観察してみる価値はありそうかな?」
 間抜けな少女が置いて行ったスケッチブックと万年筆を拾い、エンヴィーは笑った。バカ真面目なことに、両方ともしっかり記名されている。
 パラパラとめくると様々な錬成陣がぎっしりと描き込まれていた。研究書ではなく即席の錬成用らしい。それなりの技術を持っているのは間違いない。
 可能性のある錬金術師なら少しくらい調べてみるのもいいだろう。どうせ仕事のついでだ。
「鋼のおチビさんの関係者っぽいし、人柱候補になるといいなあ」
 トウコの忘れ物を放り捨て、エンヴィーは歩き出した。
 その口元にはさっきまでと別人のような、狡猾な笑みが浮かべて。

  1. 2015.10.15
  2. 2016.08.03 加筆修正
  3. 2020.03.23 加筆修正