アメストリス最大の蔵書量を誇る国立中央図書館。全蔵書を読み切るには人生を百回繰り返してもまだ足りないと言われる知の宝庫。
それだけに敷地面積も半端ではなく、トウコはここでも道に迷っていた。
「へえ、ダブリスからわざわざ! 汽車でも遠かったでしょう」
「ええ、まあ」
「にしても南って美人が多いのかな? 俺も今度行ってみようかな~! オススメの観光名所とかあります?」
「えっと、カウロイ湖とか……」
饒舌な青軍服の青年に先導されて長い階段をあがる。
広すぎる館内で右往左往していたトウコに道案内を申し出てくれた彼はブロッシュ軍曹といって、なんとエルリック兄弟の護衛をしているまさにその人だそうだ。
最初はよく口の回る青年だと心配になりかけたが、しっかりした体幹や規則的な歩幅、会話のなかでもさりげなく周囲に配られる目はよく訓練された軍人のもので、トウコはひそかに安心した。
「軍曹! 勤務中になにしてるの!」
階段を上がると、トウコとブロッシュを目にとめた軍服の女性が廊下の奥で小さく声をあげた。
彼女の後ろ、簡素な二脚の椅子の間で守られている扉が目的地だ。ブロッシュ軍曹いわく、昨日からエルリック兄弟が貸し切っている部屋らしい。
「少尉殿! エドワードさんのお客人をお連れしました!」
「お客さん……? あの、失礼ですがお名前を」
少尉と呼ばれたのは黒い短髪の、泣きぼくろが特徴的な麗人だ。
丁寧に自己開示を求められトウコは軽くお辞儀をした。
「トウコ・カーティスといいます。彼らの知人です」
「確認します」
簡単に名乗ると少尉は無駄のない動きで扉の内に滑り込んだ。……本当に護衛されているんだな。実感すると少し緊張してしまう。
静かになった廊下で扉の向こうに耳をすませると、ガシャンと大きな金属音が響いた。
「姉さん!?」
飛び出してきたのは大きな鎧だった。見上げるほどの背丈は父よりさらに大きく、二メートルをゆうに越えている。
「……えーと」
「……あ! えっとその、ボク……」
鈍色の鎧は今さら狼狽えたように口ごもってわたわたと身振りした。
まったく信じがたいが、その仕草には見覚えがある。
「……アルフォンス?」
「わ、わかるの!?」
「ぜんぜん。でもわたしをそう呼ぶのはアルだけだから」
ぱっと、表情のない鎧の顔が華やいだ気がした。
幼い頃そうしたようにトウコが手を伸ばすと、アルフォンスも鎧の体を小さくかがめた。
「よしよし、大きくなったね」
頭を撫でるとよく磨かれた金属にすこし指紋がついてしまって、袖口でもう一度こすっておいた。ふわふわの金髪に触れられないのは残念だがこれはこれで心地いい。
「どうしたアル……って姉ちゃん!?」
「エド!」
遅れて出てきたのはアルフォンスの兄、エドワード・エルリックだ。こちらは昔となにも変わらない。
「びっくりした……えっと、久しぶり?」
「久しぶり。エドは相変わらずち……」
「小さいとか言うなよ!!?」
「……大きくなったね!」
予想以上の過剰反応にひるんだが、その険しい目つきがまた懐かしくてトウコは笑みをこぼした。
「ふたりとも、会いたかった!」
幼い日々と夢の世界。二つの遠い記憶の面影を色濃く残す小さな体を抱きしめると、耳元でカチャリと金属の擦れる音がした。
トウコには前世の記憶がある。
夜ごと夢に見たそれは曖昧で朧げで、けれど時折強烈な既視感を与えることで訴えかけてきた。これは夢ではないと。
『鋼の錬金術師』――前世で読んだ漫画作品のタイトルだ。この世界、そしてトウコの周囲の環境とその作品には、偶然と捨て置くには多すぎるほどの共通点があった。
その最たるものは、この二人。
「にしても旅行なぁ。姉ちゃんが、ひとりで」
「そう、わたしがひとりで」
「よく師匠とシグさんが許してくれたね」
図書館近くのレストランで遅めの昼食をとりながら、三人は積もる話に花を咲かせていた。
トウコと二人は実の姉弟ではない。同じ師に錬金術を学んだいわゆる姉弟弟子の関係である。
だから話題の中心はもっぱら共に過ごした幼少期の思い出と、三人が師事した錬金術師の師について、そして近況報告だ。
「二人こそずっと旅してるんだって?」
「誰に聞いたの?」
「風の噂もとい、ウィンリィちゃんの噂で」
「あいつか!」
ウィンリィは二人の幼馴染でありトウコにとっては文通相手である。
ほんの数日前のこと、彼女はトウコに珍しく電話をかけてきた。エドワードの機械鎧に整備ミスをしてしまったと落ち込んで。
トウコはそれを以前から知っていた。彼らに護衛がついている件もウィンリィに聞いたわけではなく、彼女の話から”そのあたり”だろうと思いだしてしまった。
これからについてもそうだ。詳細な時期や前後関係はともかく、そういう状態のエドワードが近々誰かと戦闘状態に陥り危険な目に遭うと、トウコだけが知っている。
「漫画の世界、ねえ……」
「え? なんて?」
「んーん」
日本語でのつぶやきにアルフォンスが首をかしげた。
あまりにも馬鹿げている。誰かに話そうものならまず医者を勧められるだろう。
異世界へ転生したというだけでも信じがたいのに、そのうえ架空の世界ときた。作り物の世界が実在したのか、それともここが作り物の世界なのか……どちらにせよ愚にもつかない話だ。トウコ自身、はじめの頃はそう否定し続けていた。
だがそんな折、トウコはある男に出会いこう言われた。
『ありえない』なんてことはありえない、と。
図らずもそれが追い打ちだった。男の存在と言葉は否定しきれないほどはっきりとした確信をトウコに植え付けた。
それでも完全な確証には至らず、記憶の真偽を明確にするためトウコは中央の街へやって来た。
細かいことを考えるのは苦手だ。そもそも、ろくに覚えてもいないものを考えたって仕方がない。
だから自分の目で見て判断しようと、そう思ったのだ。
「ともかく、元気そうで安心した」
「姉ちゃんもな。師匠は?」
「相変わらず体は弱いけど、元気だし強いし……めちゃくちゃ怒ってたよ~」
「ひいいいっ!!」
「あはは。すごい真っ青」
兄弟は揃って互いを抱きしめた。トウコの母であり三人の師でもあるイズミ・カーティスは弟子たちにとって恐怖の象徴である。
「姉さんはいつまで中央にいるの? 予定とか決まってる?」
「うーん、無期限かつ無計画に観光するので予定は未定です」
「なあアル。計画性を持つべき奴ほど計画を立てないのは何故だと思う?」
「ははは。エドったらパラドックスの研究でも始めたの?」
実際のところ、自分でも無計画すぎたとやや反省している。
ウィンリィに電話を受けていてもたってもいられず勢いで飛び出したものの、完全にノープラン。無策無謀な行きあたりばったりだ。
「二人は図書館で調べ物?」
「あーまあな。見る?」
「……今日の献立一〇〇〇種?」
手渡された書類の一枚目にはそう書かれていた。ざっと読んだところ、ありふれた家庭料理のレシピのようだ。図書館の机には似た紙束が大量に置きっぱなしだったから、これはごく一部だろう。
「錬金術の研究資料だよね。なんの研究?」
「賢者の石。オレたちちょいと事情があって石を探してるんだ」
ああ、『知ってる』ことだ。
彼らの事情と目的、ついでにその研究資料とやらを解読した結果も。
分かっていたことではあるが、ものの数十分でこうも立て続けに『知っている』ことに遭遇するとは……これはいよいよ、認めなくてはならないか。
「でも姉ちゃん、よくひと目でわかったな。これが研究書だって」
「ふたりが真剣に読むならそれしかないし、家庭料理のレシピにしてはちょっと無駄が多いもの。ほらここの工程とか。まあ丁寧と言えばそれまでだけど」
「なるほど、額面通りの用途として見たら多少の違和感があるんだな……料理なんか全然しないから分からなかった。他にもそういうところある?」
「うーん、ちゃんと読まないことにはなんとも……」
パンをかじりながらエドワードは「料理書も漁ってみるべきか……いやでもな……」などと呟いている。
錬金術師の多くは自身の研究を暗号化して記録する。他者がそれを読み解くのは容易ではない。
開き直って日本語で記しているトウコの研究書などはおそらくかなり簡単な部類だ。
なにしろ錬金術師というのは総じて聡明。言語学に通じてさえいれば、世界に一人しか使う者のいない言語だって難なく読み解くのが彼らである。
なかでも類まれな天才と謳われる彼がわざわざ人に訊くということは、
「難航してる?」
「正直な。料理研究書風にしてあるから解読しやすいと思ったんだけどなー」
「大変?」
「もー超たいへん」
ぐでっと崩れるようにエドワードはテーブルに伏せた。体力的にもタフな彼がここまで疲れるのは非常に珍しい。
「手伝おうか?」
「っマジで!? いいの!?」
がばりと起き上がってエドワードは目を輝かせた。
「もちろんいいよ。お姉ちゃんだもん」
「よっしゃー助かるぜ!!」
「やったね兄さん!」
両手を挙げて喜ぶふたりにトウコも思わず相好を崩した。
どうせ予定もないのだ。寄り道というほど目的と離れてもいないし問題あるまい。
「でもどうして賢者の石なんて調べてるの?」
「そ、それは……」
もしトウコの知っている通りなら二人は体を失っていることになる。アルフォンスは全身、エドワードは右手と左足を。
しかもそのきっかけとなる錬成をあのダブリスでの日々で二人はすでに考えていた――だなんて、信じたくはない。
だがレストランへの道中、トウコは気づいてしまった。かすかに反響する金属音、巨体の割に軽いアルフォンスの足音。小柄なのにゴトゴトと重く低い音を片足だけ立てて歩くエドワード。
そしていま、アルフォンスは料理に手をつけていない。
「学術的興味だよ。ほら、世間では伝説上の代物って言われてるけど、錬金術は奥が深いし……」
トウコは静かに目を伏せた。
「そっか」
元々、学び始めた頃からトウコは技量も才能も二人に劣っていた。姉としても姉弟子としても頼るに値しない存在だとわかっている。
秘密があるのはお互いさまだ。だからこれは、しかたがない。
「ニャオ」話し声で目を覚ましたのか、バッグの中の黒猫がひょっこりと顔を出した。
「シディ! キミも久しぶりだね~」
トウコが抱くと大柄な猫もアルフォンスの腕の中ではずいぶん小さく見える。
幼い彼を知るトウコとしては、この巨大な鎧とアルフォンスが同一人物だとはなかなか信じがたいが……。
「よーしよし。フフフ、相変わらずカワイイね」
だがその声や仕草には確かに、昔のアルフォンスの面影がある。猫好きも相変わらずのようでトウコは懐かしい心地になった。
「わたし、もう行くね。連絡先教えて」
ちらと時計の針を確認してバッグからメモ帳を取り出す。
「え? もう行っちまうのかよ?」
「どうせなら夕食まで一緒にいようよ」
「そうしたいけど、そろそろ予約してるホテルに行かないと」
安さにつられて予約した宿だがチェックインは早い。まだ日は高いが、道に迷う可能性まで考えたらもう行った方がいいだろう。トウコは自分の方向感覚を信用していない。
名残惜しげに引きとめてくれる声に答えながら、あれ、と首を傾げた。万年筆がない。スケッチブックも。
「軍の宿泊施設に変えたら? 遅くまで開いてるし、オレの名前で格安で泊まれるぜ」
「遠慮しとく。なんかむさ苦しそうだし」
ガサゴソとバッグの底を漁るが、やはりない。あの路地裏で落としたのか。――しかたない、拾いに戻ろう。
「でも大丈夫? 迷子にならない?」
自前のペンで連絡先のメモを書きながら、アルフォンスが心配そうに首をかしげた。鎧だけの姿は意外にも表情豊かだ。
「失礼な。わたしだってちょっとは成長してるよ」
「迷ったら電話してくれよ」
「聞いてよ……」
本来そう世話焼きでもないはずの弟弟子たちに気遣われるとかえって情けなくなる。姉弟子の威厳などあったものではない。
トウコとしては無事ふたりの元へたどり着けただけでも僥倖なのだが、言えば呆れられるのは明白なので黙っておいた。
「じゃあ明日、この時間にまた来るね」
「あれ、午前は予定あるの?」
「あれだろ、迷子になったときの予備時間」
咳払いしてメモを受け取り、バッグの口を開けるとシディがひょいと飛び込んだ。
兄弟と手を振って別れ、入り口で待機している護衛二人に会釈をしてしばらく歩いたところで、トウコはいま来た道を静かに振り返った。
ドクター・マルコーの賢者の石の研究資料と、その解読。
いつ頃の出来事かまでは記憶していなかったが、そういうものがあることはたしかに覚えていた。
曖昧な記憶を整理するためにも、弟たちの手助けをするためにも、しばらく彼らを手伝ってみよう。
§
「……ごめんシディ。今日の夕飯は遅くなります」
「ニャオン」
不満気な鳴き声が静かな夜道に響く。
心身ともに疲れ果て、どこまでも遠い目でトウコはため息をついた。
続く道には妙に暗くおどろおどろしい建物だけが立ち並び、ホテルどころかひと気も店の明かりすらもない。いつのにかとっぷり日も暮れてしまった。……いよいよチェックインの時間に遅れそうだ。
冷たい風にあおられてぶるりと腕をこする。
行き先もわからず歩き続ける心細さに寒さと暗闇と空腹と疲労がしみて、なんだかもう泣きそうだった。
「あれ? ねえ、ちょっと」
暗い道に他の人影はない。自分のことかと振り返り、トウコは目を見開いた。
「え……エン、さっきの!」
「やっぱりあんたか。道に迷うのが趣味なの?」
暗がりから現れたのは昼間の少年だった。薄い月明かりと街灯のしたでエンヴィーとおぼしき少年が「また会ったね」と笑う。……すんでのところで誤魔化せたらしく、トウコの失言を気にした様子はない。
「これ以上進むのはやめた方がいいよ。そっちにあるのは刑務所とか、閉鎖された研究所だけだから」
そう言って少年が指した先にはたしかに、”中央刑務所”と記された建物がある。ということは、駅からまるで反対方向ではないか。
「図書館からここまで来たの? よくあんな大きな道で迷えるねえ」
「……初めての土地だから」
「へーえ?」
あからさまに馬鹿にしている視線を甘んじて受け止め、トウコはうな垂れた。
失せ物の回収には成功したものの、人に尋ねながらでこれだ。一体出発から何時間経ったというのか。これは自己評価をさらに下方修正せねばなるまい。
「……あの、もしよかったら道を教えてくださいお願いします」
わらにもすがる思いでトウコは頭をさげた。
頼っていい相手ではないのは分かっている。分かっているのだが……道を訊ける相手すらいないところに来てしまって、このままでは野宿になりかねない。
「ヒマだし別にいいけど……どこに行きたいの? 駅?」
「できれば、この住所のペンションまで……」
良い人だ。良い人造人間だ。神様だ……。
地獄に仏っているんだなあ、などと心中でひたすらありがたがりながら、トウコは住所の書かれたメモを渡した。
「なんだ、めちゃくちゃ分かりやすい場所じゃん」
少年が呆れきったため息をつく。
「実はわたし、方向音痴で」
「見れば分かるけど」
「……ですよね」
わずか半日にしてさらした失態の数が多すぎる。
少年はくるりと背を向けて歩きだすと、首だけまわしてトウコを振り返った。
「なにしてんの? 行くよ」
「えっ? 連れて行ってくれるの?」
思いがけない言葉にトウコは目をまたたいた。道順を口頭で説明してもらうだけのつもりだったのだが……。
「ここから結構遠いし、一人じゃどうせまた迷子になるだろ? まあ、ついでだよ」
「いいの!? ありがとう……!!」
良い人……! ものすごく良い人だ……!
予想だにしなかった親切に打ちふるえて、トウコは小躍りしながらついていった。
言い方はどこかぶっきらぼうだが、それすらも素の優しさである証明に見えてくる。
もしかしたらここは自分の知る漫画とは全く別の――いわゆる並行世界のような場所で、彼らは悪人ではないのかもしれない。もしくは、そもそも人造人間は悪い連中だという認識が自分の記憶違いだった可能性もある。
そんなことを考えながら隣を歩くトウコに、少年は探るように問いかけた。
「ところでさ、鋼のおチビさんとはどういう関係なの?」
「え? あ、いちおう姉弟子……」
「姉弟子! あのおチビさんの? へえ、人は見かけによらないもんだね」
少年はずいぶんと嬉しそうに、花が咲くように笑った。いやいや、とトウコは慌てて首を振って訂正する。
「わたしは本当に大したことないよ。ただ学び始めたのが先だったってだけ」
「そう? 昼間のあれも速くて正確だったし、実は結構やるんじゃないの?」
「ないない。わたしなんてもの覚えも悪いし、ちょっとした物を錬成するのが精いっぱい」
「ふーん……」
納得したようなしてないような顔で少年は考え込んで、「まあたしかに、もの覚えは悪そうだよね」と意地悪な笑みを浮かべた。「ひどい」と返しながらトウコも笑う。
街頭の他に照らすもののない暗い道。ひとりで歩くには心細かったが、一緒にいてくれる人がいるだけでこうも違うのかと思うほど今は安らいでいる。
隣を歩く少年の、なにかを見定めるような視線は暗闇に吸い込まれ、トウコが気付くことはなかった。
少年のまとう空気は明るくて気安くて、このまま親しくなれそうな――そんな甘い錯覚すら覚えてしまう。すっかり打ち解けた気分になったトウコは、思い切って口を開いた。
「……ね、よかったら名前を教えて? わたしはトウコ・カーティスっていうの」
相手がすでに自分の名前を知っていることを、トウコは知らない。
トウコもまた相手の名前をなかば確信していることを、少年は知らない。
少年はしばし無言で宙を見つめていたが、ひとつ頷くと口を開いた。そして予想していた通りの名を名乗る。
「まあ、名前くらいなら問題ないか。エンヴィーだよ」
「エンヴィー、よろしくね」
トウコが笑顔で差しだした手を奇妙なものを見るように眺めたエンヴィーだが、すぐに微笑んで自分の手を重ねた。
「よろしく」
握った手は温かい。
名前こそはじめに予想した通りではあったが、ここにいるエンヴィーとあの漫画の彼とは別人に違いない。やはりここは、並行世界かなにかなのだ。
それからふたりはセントラルのことや錬金術のことなど、他愛もない雑談をしながらしばらく歩いた。
ようやく目的のホテルが見えたところで腕時計を確認すると、ギリギリ間に合う時間だ。迷子になることまで計算に入れておいてよかった。
とはいえ、一人ではとても間に合わなかった。
「ありがとう、エンヴィー。おかげですっごく助かった」
本当は名残惜しい。けれどトウコはこういうときに引き止める言葉を知らなかった。
「どーいたしまして。ところでトウコ。セントラルは初めてだって言ったよね?」
「え……うん」
「もしよかったら案内してあげようか? 明日とか」
「え……えっ、いいの?」
願ってもない申し出だった。明日昼過ぎまでなら予定もない。
しかし、これ以上迷惑をかけていいのだろうか。
「もう少しあんたと話してみたいし、一人じゃまた迷子になるだろ? 観光でも買い物でも、たいていの所は案内できるからさ」
人懐っこい微笑みとともに言われた意味がわからず、トウコはしばし言葉を失ってエンヴィーを見つめた。
すると無視されたと思ったのか、エンヴィーはむっとして眉を寄せた。
「嫌ならいいけど」
「いっ嫌じゃない! 全然嫌じゃない!! ぜひお願いします!」
誤解されてはたまらないと慌てて両手を振り頭をさげる。
それに気を良くしたのかエンヴィーは「そ。よかった」とうなづいた。
「じゃあ明日の……朝九時に、待ち合わせ場所はここでいいよね?」
「う、うん!」
「じゃあまた明日。バイバイ」
「ま……また明日! 今日はありがとう!」
軽く手を振って背を向けたエンヴィーに、トウコも大きく手を振り返して見送った。
そしてぼんやりとチェックインを済ませ、案内された部屋で一人になった途端、脱力してドアを背にずるずると座り込んだ。
「どうしようシディ。友達、できそうかも」
「ニャー」
「わたし、ニヤけてない? 大丈夫?」
「ナ~オ」
「あっごめんおなか空いたよね! ごめんごめん!」
こうして初めての一人旅の夜は、淡い期待と共に更けていった。
- 2015.10.15
- 2016.08.03 加筆修正
- 2020.03.23 加筆修正
- 2020.03.26 一部改稿