目を覚ましてすぐ、トウコは寝坊した朝のように勢いよく飛び起きた。
時間的にはまだ十分な余裕がある。けれど体がうずうずして落ち着かない。昨夜からずっとそうだ。
シディの缶詰を開けて、昨日のうちに買っておいたパンを口に詰め込みながら身支度を整える。洗い替えするつもりで数枚しか持ってこなかった服をベッドに広げて後悔した。独特な服装のあの子はきっとオシャレ好きだから、地味なトウコの格好をダサいと思うかもしれない。
……って、いやいや、相手はそこまで見てないって。それより服は実用性重視だ。そういえば彼はあの薄着で冷えないのだろうか。羽織るものを持っていけば喜ばれるだろうか。なんだこれデートか。
「平常心、平常心」
唱えてみたが効果はあまりなかった。支度が終わってしまうといよいよじっとしていられなくなり、ホテルの外縁を五周ほどジョギングして、戻ってきて、今度は筋トレを始めた。
だって、家族以外の誰かと出かけるなんて本当に久しぶりだ。友達と仲がよかった頃はどんな話をして、どこで遊んだのだったっけ。たしか服屋なんかを見て回っていた気がするが、もうあまり思い出せない。
……いや、相手、人造人間だから。
勝手にふわふわと浮ついていく思考を叱咤して引き戻す。もしここがトウコの知っている通りの世界なら、彼はトウコの、エドワードとアルフォンスの、母の、そして人間の敵なのだ。
それを見定めるためにセントラルへ来たのだから、今日の観光だって気を引き締めて観察に徹しなければならない。
林檎を丸かじりしながらうんうんと頷く。我に返ったわたし、えらい。
だがふとのぞいた窓のそとに黒い人影を見つけた瞬間、理性的な自戒なんか全部とんでいって、トウコは部屋を飛び出していた。
§
雲ひとつない朝を迎え、セントラルの街は賑やかな活気に包まれはじめていた。季節はすでに初夏。道行く人のなかには涼やかな格好の者も多い。
その中でもひときわ涼しい――むしろ見ている者に寒さすら感じさせる薄着の少年が、ひとり街を歩いていた。
ぴったりと体に張り付いた前衛的な黒装束も、腹部と足を大きく露出する大胆さも、申し訳程度に羽織られた薄手のコート一枚で隠しきれるものではない。男性には珍しいロングヘアも人目を引き、すれ違う人間が好奇の視線を投げかける。
そんな視線に気付いているのかいないのか、少年――エンヴィーは上機嫌で待ち合わせである宿場通りの生け垣に腰掛けた。
「ちょっと早く来すぎたかな」
時計台の針は午前八時四十分を指している。待ち合わせは二十分後だ。
急な仕事で中央に呼び戻されたときは不承不承だったが、思わぬ収穫を労せず得たことで今はすこぶる機嫌が良い。
「たまにはラストに倣って、こういうやり方も良いよね」
――エンヴィーは人造人間だ。
生みの親である“お父様”の計画実現のため、建国より以前からこのアメストリスの裏で暗躍し続けている一人である。
計画はすでに最終段階へ入っているが、まだその最後のピースである人柱がそろっていない。今のところ人柱として確定している人間は、エドワード・エルリックただひとり。
だが焦る者はいない。目星をつけている候補者は決して多くはないが、エンヴィーたち人造人間は人間の操り方を熟知している。いざとなればどうとでも出来るという余裕があった。
まあそれでもやはり、候補者は多いに越したことはないわけで。
臨時収入を得た子供のような、そんな気持ちでエンヴィーはトウコに目をつけた。
なにしろあの“鋼の錬金術師”の姉弟子だ。可能性としては十分。すでに人柱候補として名が上がっているアルフォンス・エルリックについても色々と知りたい。
適当に情報を引き出してついでに術師としての力量も見られたらいい、というのがトウコを誘った理由だ。
「(でなきゃ虫ケラ風情とお出かけなんて、虫唾が走る。虫だけに。……。……)」
自分の思考に軽い自己嫌悪に陥りかけたエンヴィーだが、ふいに音が消えて顔をあげた。
「おはよう、エンヴィー!」
鈴を転がすような声が静まり返った通りに響く。
人垣が割れ、自然と道がひらけた。周囲の視線をさらって現れたのはちょうど思考の中にあった少女だ。
朝日を受けたその姿は、人間ならば思わず息を呑むほど輝いていた。
「……やあ。おはよう」
「ごめんね、待たせちゃった?」
慌てて出てきたのか、駆け寄ってきたトウコはわずかに頬を上気させていた。
「いいや、楽しみで早く来すぎただけ」
「そ、そうなの」
トウコが照れたようにそっぽを向くと、細い腰元でポニーテールがさらりと揺れた。
初めて会った時も思ったが、ぞっとするような美貌だ。長い睫毛に縁取られた深い飴色の大きな瞳、すっと通った鼻梁、透き通る雪の肌に映える小さな赤い唇。快活な笑顔すら儚げな印象にさせる華奢な体つき。艷やかな黒檀の髪は後頭部でそっけなく一つに束ねただけ、服装はシンプルすぎるくらいだが、それがかえって素材の美しさを引き立てていた。
自分のような変身能力があるわけでもないのに、少女の容姿はエンヴィーがかつて見たことのないほど飛び抜けて端正だった。
エンヴィーは自身の今の姿をかなり気に入っているのだが、たかが人間ごときが素でこれほど美しいというのもなんだか腹が立つ。
だが目の前の少女はそんなエンヴィーの苛立ちに気付くこともなく、屈託のない笑顔を向けてくる。
「エンヴィー、その格好寒くない?」
言われて、エンヴィーは自分の服を見下ろした。
不本意ではあるが、ラストに言われて人間に合わせた格好をしてきたつもりだ。珍しく靴まで履いている。
しかし薄手のコートの下はいつも通りの露出度の高い、下着同然の姿である。このくらい露出がある方が若さがあって可愛い……とエンヴィーは本気で思っているが、周囲を見ればたしかに一線を画した薄着ではある。
「まあ、ちょっとね」
「やっぱり? もしよかったら、これ」
おずおずと差し出された紙袋には、黒い薄手のロングジャケットとサンダルが丁寧にそろえて入っていた。わざわざ用意したのだろうか。
ふうん、とそれをつまみ上げたエンヴィーに「サンダルは気にしないで。今日も裸足だったらと思っただけ」とトウコがつけ加えた。
「いいね、ありがと」
正直いらないと思ったが、エンヴィーは笑顔でジャケットをコートの下に着込んだ。
変身能力のあるエンヴィーにとって服は体の一部も同然。どんな服でも自在に作り出せる故に、こんなものは本来必要ない。
とはいえ無駄に邪険にすることもないだろう。円滑な情報収集には円滑な関係からだ。
「ヘンな飼い主だね」
トウコがあまった紙袋とサンダルを置きにホテルに戻ったので、足元に残された黒い生き物に声をかけた。やや大柄な猫が「ニャア」と返す。
「この猫も一緒なの?」
顎の下をカリカリと撫でながら訊くと、戻ってきたトウコは少し意外そうな顔をした。
気持ち良さそうに目を細めていた黒猫が「呼んだ?」とばかりに視線をあげる。
「あ、うん。いいかな? 猫苦手じゃない?」
「別に。好きにすれば」
「よかった。この子はわたしの相棒だから、いないと落ち着かなくて」
「なにそれ、映画の観過ぎじゃない?」
「ふふ、そうかも」
鼻で笑われたことに気を悪くするふうでもなく、トウコは笑って猫の頭をなでた。
「さ、行こう! まずは服を見てまわりたいな」
「はいはい」
さてと、仕事のはじまりだ。
立ち上がり、エンヴィーは笑顔で服飾店の多い通りへ歩き出した。
道すがら目につく物を一つ一つ解説してやれば、トウコはいちいち目を輝かせて話に聞き入る。その素直な反応に扱いやすそうだと感じ、いっそう気分が良くなった。
今日の仕事は簡単そうだ。
しかし、四時間後。
未だ何ひとつ有益な話を聞き出せていないことに、エンヴィーはいい加減、しびれを切らしていた。
出かけ前ラストには「女のショッピングは大変よ」などと言われたが、こんなのは女の買い物ではないとエンヴィーは思う。
「ふー、おかげで良い買い物がたくさん出来たよ。ありがとねエンヴィー」
「……どーいたしましてぇ」
ほくほく顔のトウコの両手は買い物袋でいっぱいだ。
まさに都会を初めて訪れた田舎者。ハイテンションで次々と店を渡り歩き、その買い物量はすさまじいものとなった。あまりに邪魔なので宅配サービスの利用をすすめると、これまた田舎者丸出しで「この時代にそんなサービスあるの!? さすがセントラルは便利だね~」とよく分からない驚き方をされた。
「ていうか、布だの糸だの石だの、あんなに買ってどうするの?」
トウコは何故か服飾店は眺めるだけでほとんど何も買わず、手芸屋と工具店でばかり買い物をしていた。
「もの作りが好きでね、服や小物を作るつもり。まあ不器用だから半分は練習用だけど」
「へえ。あ、じゃあこれも? あんたのサイズじゃないよね」
自分が着ている黒いジャケットは着丈も肩幅も、明らかにトウコには合っていない。
「うん。と言っても、そっちは錬金術でちょちょっとね。持ってきた服を直したの」
「錬金術? 錬成痕がないけど……」
エンヴィーはくるりとジャケットを見まわして呟いた。錬金術で錬成したものなら鉱物の劈開面に似た直角の痕があるはずだ。
すると、両手に強い圧迫感。
下を見るとトウコがエンヴィーの手を取り、がっしりと握りしめていた。その目はキラキラと輝いている。
「分かる!? そう! そうなの! 得意なの、錬成痕を残さずキレイに錬成するのが! すごく練習と研究を重ねて頑張ったんだけど、誰も気付いてくれなくて……! あーやっと分かってくれる人に出会えた!」
なんか踏んじゃった。
握った両手をぶんぶんと上下に振りながら、トウコは飛び跳ねてはしゃいだ。両手に提げた袋は結構な重量だろうに、重さなど忘れているようだ。
その顔は喜色満面、という言葉がぴったり合うほど輝いている。
興奮して早口でしゃべり倒すトウコの勢いに引きつつ、エンヴィーは苦笑いで返した。
「へえ……そりゃ、良かったね……」
「うん、本当に良かった! ああ、エンヴィーみたいな友達が出来て、すっごくうれしい!」
いつの間にか友達になっている。
これが本当にあの鋼の錬金術師の姉弟子だろうか? エンヴィーは少女の虚言を疑った。とても彼と同門の出だとは思えない。
だが鈍感ではないらしい。エンヴィーがそれに返事をせずにいたら、トウコはほんのわずかに表情をかげらせた。
「あ、そろそろお昼行こうか? オススメのお店とかある?」
わざとらしいほど明るい声だった。まさか本気で、エンヴィーとのやり取りに一喜一憂しているのか。
……どう見ても普通の少女だ。あの二人と同じ師に錬金術を学んだ術師にしては平凡にすぎる。
鋼の錬金術師――エドワード・エルリックは史上最年少で国家錬金術の資格を取った天才だ。しかも弱冠十二歳で資格試験を受けた時には、すでに“人柱”としての条件を満たしていたという。
弟のアルフォンス・エルリックは一般人だが、兄と同じく錬金術の腕前はかなりのもので、人柱候補としても名が挙がっている。
そんな天才に囲まれておいて、服なんかを作るために時間と努力を費やす心境が、エンヴィーにはまるで理解できなかった。
「リクエストは?」
「うーん。特にこれってのはないけど、がっつり食べたい」
「それならたしかあっちの通りに、人気の安くて美味しい店があったよ」
「じゃあそこに行こう。エンヴィーは物知りだね」
トウコはエンヴィーをまるで物知り博士のように扱う。すっかり信用しきったその様子にいっそ呆れてしまい、作り笑顔も忘れてため息をついた。
知りたくて知ったわけではない。こうしたどうでもいい噂話は、日頃の情報収集のオマケみたいなものだ。
「(……まあいいや。ようやく落ち着いて話が出来そうだし)」
とにかく情報収集だと気を取り直し、繁華街を並んで歩く。
トウコはすっかり打ち解けた様子で、警戒心もなく顔がゆるみきっている。今ならなんでも聞き出せそうな雰囲気だ。
「お昼楽しみだなあ。ねえ、エンヴィーの好きな食べ物ってな……むぐっ!?」
「トウコ?」
なのに突然、トウコが路地裏に引きずり込まれた。
「あらら」
エンヴィーの手によってではない。うしろの小道に消えていった野太い腕を目にとめて、タチの悪いチンピラか変質者の仕業かなとあたりをつけた。
面白そう。エンヴィーはあえて数秒待って、のんびりと後を追った。
「ちょっとトウコー……あれ」
「あっ」
思わず目をまたたいた。予想していたものと真逆の光景の真ん中で、正面から目があったトウコが気まずそうに視線をさまよわせる。
その後ろ、狭い路地裏には数人の男が地に伏せており、トウコは何事もなかったようにエンヴィーの元へ戻ろうとしているところだった。わずか十秒弱の出来事である。
「トウコがやったの?」
「えっと、うん……。なんか痴漢されて、つい。ごめんね」
と、何故か申し訳なさそうに視線を下げた。どこかバツの悪そうな目はエンヴィーの表情をうかがっているようにも見える。
現場こそ見ていないがこの鮮やかな手際、それに軍人のようにぴんと伸びた背筋やブレのない歩き方を見るに、格闘技でもたしなんでいるのだろう。
だが、ひとつ腑に落ちない。
「別に謝らなくていいけど、昨日はオッサン相手に苦戦してなかった?」
これだけの人数を数秒でのせるなら、あんな素人くさい男一人くらい、なんということもなかったろうに。
「あれは……ほら、年配の人だったから、怪我させるのも悪いかと……。まあ暴漢なら話は別だけど」
「なになに? イヤなことでもあった? 昔襲われたりしたわけ?」
甘いことを、と思いかけたが、最後に苛立ちをこめて吐き捨てられた言葉に面白そうな気配を感じた。
この容姿ならその手の苦労は多いだろう。ここは触れずにおくのが常識的な対応、かもしれないが、エンヴィーは他人の傷や嫌がる話が大好きだ。
「そんな大げさなんじゃないけど、日常的にイヤなことだらけだよ。いい加減、こういう連中にはうんざりしてるっていうか」
「なんだ、その程度」
「え?」
「いやなんでも」
想像より軽いトウコの反応をつまらなく思いながら、エンヴィーは倒れている男のひとりを足で転がした。
黒髪黒目で、平たい顔立ち。アメストリス人ではなさそうだ。
「こいつらに用はないだろ? 行こう」
「うん」
「ちょっと待てェ!!」
路地から去ろうとしたとき、嗄れた怒声に引き止められた。
振り返ると松葉杖をついた初老の男が、銃を構えてこちらを睨みつけている。ガーゼを貼りつけたその顔に見覚えがある気がして、エンヴィーは首をかしげた。
「あっ、昨日のおじいさん」
「誰がジジイだ! 俺はまだ五十ろ……アタタタタ」
男は松葉杖に寄りかかり、胸部を抑えるようにしてうずくまった。
どうやら昨日トウコに暴行を加えようとして返り討ちにあった、あの男らしい。
「くそっ、気絶している間に痛めつけるなんて、陰湿な女だ。おかげで肋骨にヒビが入っちまった」
ちらりと、トウコがエンヴィーを振り返った。
それに対しニヤリと笑みを返す。
「おまけに顔を踏んで行きやがっただろう! 鼻の骨が折れたんだぞ!」
もう一度、トウコがエンヴィーを振り返った。
本当にやったの? と問いかけてくる視線に、べえっと舌を出して答えた。他人が冤罪を被っているのが愉快でたまらない。4時間付き合わされた憂さ晴らしにはぴったりだ。
「……まあ、いいけどさ。で? 今日はお仲間連れてその仕返しですか?」
面倒くさそうにトウコが問うと、男はうっと言葉に詰まってあたりを見回した。興奮のあまりか、自分の味方は全員意識不明であることを忘れていたらしい。
「く、くそっ! 調子に乗りやがって!」
右手に握りしめた拳銃をトウコに向ける。
昨日よりはマシな武器を持ってきたらしいが、怪我のためかその動きは緩慢だ。
引き金を引くと同時にトウコが駆け、男の手首をすばやく掴む。正直足は遅いが、男の方がもっと遅かった。そのまま腕をひねり上げて跪かせ、男が取り落とした銃を遠くに蹴りとばした。
「ねえエンヴィー、一般人の銃の所持って」
「違法だよ」
「だよね。憲兵さん呼ぼうか」
「まっ待て!! そんなことしたら俺は国に帰される……!!」
「国? オジサン、外国人なんですか?」
しまった、というように男は顔をこわばらせた。
気まずそうに口ごもり、やがて泣きそうな目でトウコを見上げた。
「な、なあお嬢さん。頼むから俺の国に来てくれ。悪いようにはしないから」
「すでに悪いようにされまくってるんですけど」
「ちがう。話を聞いてくれ。俺の国では、アメストリス人は極めて珍しいんだ。外見が珍しく美しい女ほど、向こうでは重宝される」
「重宝って……」
「人身売買ってことじゃない?」
「なるほど」
得心してトウコは素直にうなづいた。
面倒だ。そう思ったエンヴィーはなんとかこの場を切り上げられないかと考えた。
こんなどうでもいい話に付き合うほど暇ではないし、トウコが人間特有のお綺麗な正義感でも発揮したら、情報収集どころではなくなってしまう。
「ねえトウコ……」
「じゃあはるばるアメストリスに来たのも、商品になりそうな女の子の調達のため?」
駄目だ。すっかり聞く姿勢に入ってしまっている。
「そうだ。特にあんたは……目や髪の色に物珍しさはないが、肌は雪白で、姿は間違いなく最高級品だ。連れて帰ることが出来たら、さぞ高値で引き取ってもらえるだろう……。ああクソ、そしたら俺は一生左団扇だったのに!!」
言いながら興奮し始めた男は悔しそうに地団駄を踏み、胸が痛んだのか「ううっ」と小さく呻いてうずくまった。
その様子を、エンヴィーとトウコは呆れきった目で見下ろした。馬鹿としか言いようかない。
「なるほど、なるほど。エンヴィー、やっぱり憲兵さんを呼ぼう」
「待て待て待て!! ちがうんだ、そうじゃなくてな、売られるのは何も悪いことじゃあないんだよ。お嬢さんなら絶対大切にしてもらえる! 大国の高貴な方の元で、富豪のように贅沢な暮らしを送れるんだ。欲しいものはなんでも手に入る。悪くないだろ?」
「悪いよ」
「もう放っておけば? こんな小悪党、たいした害はないでしょ」
よくいる不法入国の売人だ。どうせほんの何人か人間をさらう程度の悪さしかしない。
「あるよ、害。可愛い女の子をさらう気満々みたいだし、すでにさらわれた子もいるかもしれない。こういうゴミはちゃんと取り調べてもらって、ブタ箱に突っ込むなり強制送還するなりしてもらわないと」
お、と意外な発言に目を瞠る。ただのお人好しかと思いきや、けっこう言うらしい。しかも、かなり口汚い。
熱のこもった口調のトウコはどうやら自分が何を口走っているか気づいていないようだが、エンヴィーはひそかに感心した。
美しい花には棘が――ということか。
「でもさ、普通にこの場で痛めつけて吐かせれば?」
「……軍人でもないのに、正当防衛以上の暴力はふるえないよ」
しかしやはり、花は花らしい。
一瞬何かを躊躇ったのち、そうバカ真面目なことを真顔で言ったトウコは、諭すような目を男に向けた。
「さあオジサン、大人しくしててくださいね。どの道その体じゃ逃げられないでしょ?」
本当にコレが、あの兄弟と同門なのだろうか?
こんなとき、エドワード・エルリックならばこいつらを派手に蹴散らして全部吐かせただろう。錬金術となんの関係もないことではあるが、どうしても比べてしまう。
エンヴィーから見てトウコの対応は、ひどく退屈だった。
クソみたいに真面目なうえに、すごいバカ。それがトウコに下した評価だ。わざわざ相手などしなくても、さっきの発砲音で誰か通報しているだろうに。
いい収穫だと思ったのに、ハズレだったかな。
「ふっ、ふざけんな! ここまで来て強制送還だと!? ンなことされたら、俺の積み上げてきたものが全部おじゃんだ!!」
「知らないですよそんなこと。人様に迷惑かける商売に手を出したのが悪い」
「くそっ、くそっ、おまえら起きろ!! なにがなんでもこの女だけは持って帰るぞ!!」
いつの間に目を覚ましたのか、倒れていた男たちが起き上がってトウコとエンヴィーを囲む。
ああもう、時間のムダ。
つまらない小悪党と、つまらない小競り合い。
今日は本当に大外れだ。なんの話も聞き出せないまま、くだらない茶番に付き合うハメになるなんて。
本当に面倒くさい。いっそもう……。
「……もう、しかたないな」
「あ?」
困ったように呟いたトウコは、バッグから一枚の布切れをとりだした。
黒猫がトウコの肩の上にするりと移動する。
「凍傷にならないといいですね」
布切れを地面に叩きつける。
青い光がほとばしり、パキパキと音をたててアスファルトから氷が生えてきた。
「なっなんだ!?」
氷は路地裏一面を浸食し、男たちの足にまとわりつく。立ち上った冷気がゾクゾクとエンヴィーの背筋を駆け抜けた。
あっという間に、あたりは白銀の結晶に覆われた。トウコとエンヴィーの足元だけにむき出しのアスファルトを残して。
「憲兵さんが来るまで、そのままでいてください」
バイバイ、と手をふってトウコは路地裏を抜けだした。もたもたと氷の上を歩いていく様は格好悪い、が。
その後を追いつつ、見事な錬成物を振り返り、エンヴィーはひとり笑った。
「……なんだ、けっこうやるんじゃん」
- 2015.12.01
- 2016.08.05 加筆修正
- 20.04.27 一部改稿